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前 編




親子関係や音楽においての葛藤、
約 25 年間の摂食障害と克服していく過程、
自己表現や一人旅を通して得た感動などを記した自分史です。

2013 年に公開したこのページは、恐れからすぐにリンクを外し、
5 年間眠らせていましたが、2018 年 9 月 16 日より再び勇気を出し、
陽の当たる場所にさらします。


更新日:2018/10/03


ニョキリサ(後編)は こちら です


簡易版プロフィールは こちら です




ニョキリサ(前編)のもくじ
  まえがき(2013/08/15)
  誕 生(1976/03)
  乳 児 期
  幼 少 期
  小学生時代(1982/04 ~ 1988/03)
  中学生時代(1988/04 ~ 1991/03)
  高校生時代(1991/04 ~ 1994/03)
  大学生時代(1994/04 ~ 1997/10)
  枕元のお告げ・インド行脚(1997/02/27 ~ 1997/04/06)
  「美」と「生」の探求・自転車日本一周(1998/01/01 ~ 1998/08/19)
  摂食障害(拒食症と過食症)と告白(2002/08)
  長期入院を繰り返す(2002/08/19 ~ 2010/03/15)
  引きこもりの 9 年間(2002 ~ 2011)
  編入学・再び大学生に(2008/05 ~ 2010/03)
  人生相談・改名(2008/10/05)
  神戸から再出発(2011/05/24)
  オーケストラの門を叩く(2012/08/26)
  戸籍から改名(2013/04/22)
  連弾って楽しいな(2013/07/21)
  自由なスケッチ(2013/07/28 ~ 29 ・ 08/11 ~ 12 ・ 09/01 ~ 02)
  あとがき(2013/10/28)
  ニョキリサ(後編)







まえがき

 「ニョキリサ」の由来は、
 この 1 年で身長が、なんと、
 5 cm も伸びたことからきています。

 成長期はとっくに終わっていると思いきや、
 37 歳にしてびっくりです。


 遠い国からやってきたひとつの種子が、
 自然の恩寵を受け、
 ある日、土中の暗闇からニョキリと顔を出しました。

 「はじめまして、こんにちは!」
 「こんにちは!」

ヽ(*⌒o⌒)人(⌒-⌒*)v♪


 新しい世界に出逢いと可能性を見出し、
 あの世とこの世を自由自在に行き来する
 「ニョキリサ」の誕生です。

 私のこれまで歩んできた半生を描いていきます。


(2013/08/15)









誕 生 1976 年


 私の両親は再婚同士、それぞれの家庭も故郷もなにもかも捨て、身一つで上京しました。

 十年の恋が成就したものの、縁もゆかりもない都会での生活は苦しいものでした。


 家具といえば、当初はミカン箱でしつらえたちゃぶ台ひとつ。

 何度か流産をしましたが、一緒になって七年目に待望の子を宿しました。それが私です。

 この時、父は 44 歳、母は 39 歳でした。



 生まれる前から名前を付け、お腹の中の私に話しかけ、ベートーヴェンを聴かせては誕生を待ち望みました。

 1976 年の春に、東京都豊島区で私は生まれました。

 予定日より一ヶ月以上も早い、掌に乗るほど小さな 1900g の未熟児でした。

 生まれてすぐ救急車に乗せられ、設備の整った大きな病院へと運ばれ、ガラスの箱の中でしばらく過ごしました。

 父は毎日ガラス越しから見舞いに来てくれました。

 どんな格好をして寝ていたか、ベッドで安静中の母に嬉しそうに話しては、これからの幸せな三人での暮らしに胸踊らせていました。








乳 児 期

 両親の愛情を一心にうけ、すくすく元気に育ちました。

 ある日、家の中にいた虫に驚いた母が、とっさに頓狂な声をあげたとき、よちよちの私はひきつけをおこしたかのようにしばらく目をむき身を固くさせました。

 この頃からすごく感性が鋭かったと、後に母が話してくれました。

 私はお腹が空いて泣くことも、おしめを替えて欲しいとぐずったこともありませんでした。


 不足や不快を感じる前に全て母が先読みして用意周到にやってくれたからです。

 私は泣いたり怒ったり、自分の欲求を感じ外へ表現することを知らないまま成長していきました。







幼 少 期

 両親は私を育てるために働きづめに働きました。

 日中は託児所や保育園に預けられました。

 私は小学の高学年までの記憶がわずかしかありませんが、人見知りからか保母さんと一度も話したことがなかったことは覚えています。

 子供が遊びまわっている公園が嫌いで、木の幹にしがみ付いて隠れているか、ひとりで遊ぶかで、人の輪に入ることがこの頃から苦手でした。


 もうひとつの記憶は、物心ついたころには毎晩のように静かに枕をぐっしょり濡らしました。

 私の両親は、友達の親御さんよりもずいぶん歳をとっていると感じていました。

 明日にでも死んじゃうんじゃないか、親戚は遠くにいて誰も助けてくれない、一人ぼっちになったらどうやって生きていけばいいのか・・・、こんな心配を寝る前にいつもしていました。

 両親を悲しませたり困らせたりしたら、ショックですぐ死んでしまうと、本気で考えていたのです。
 それがこの頃の私の全てであり、10 年、20 年後も私の根底にある不安と恐怖でした。

 無力の私は従順を決め込みました。







小学生時代 1982 ~ 1988

 私はいつも不安でした。

 母はいつもカリカリしていたので、地雷を踏まないようにびくびくしていました。

 私は両親の喜ぶことを先読みして言動を決めていました。

 ある時、母が怒らない日ってあるのかな・・・と思い、その日から母を観察してみたのですが、母は毎日私のなにかしらに癇癪を起こしていました。


 今思い返すと、母もぎりぎりのところで必死だったのだと思いますが、当時の私は怒られないようすることに必死、母の機嫌に敏感でした。

 家の中に盗聴器や監視カメラがないか探すほど、母娘との密着が凄まじかったです。







 母が夕方 5 時頃に仕事から帰ってくる集合住宅の階段を上る足音まで聞き分けることができました。

 私は禁止されていたテレビやアニメ、ボーっと上の空の空想のあそびを中断し、足音が聞こえるや否や、ピアノか勉強机の椅子に滑り込み良い子の振りをしていました。

 私はピアノよりも外でローラースケートや一輪車に乗ることが好きでした。

 母が帰る前に遊びを切り上げて一足先に帰って家中の照明をつけ、テレビもつけておかないと、どえらい鬼の形相で執拗に詰られました。

 母は淋しさの塊でした。

 誰もいない真っ暗で静かな家に帰るのを病的に恐れていたのです。







 大人になってから両親から聞いた話です。

 小学 1 年生の運動会で徒競走がありました。

 私はビリから 2 番目に走っていました。

 前を走っていた子が転んだとき、追い抜きのチャンスにもかかわらず、私は走るのをやめて倒れている子に手をかしました。

 最後を走っていた子に抜かれ、転んだ子にも負けて、私はビリになりました。

 この頃からお人よしのところがあったと思います。



 日曜日は両親と教会へ礼拝にいきました。

 最初から素朴な疑問がありました。

 どうして牧師さんはいつも、「感謝しなさい」だの、「愛しなさい」だの、「赦しなさい」だのと話されるのか。

 自然に湧き上がる感情なはずが、教えられてすることと違うと思うけどなぁ・・・。

 不快な感情は、不快と感じる自分が悪いのか、不快の感情を捻じ曲げたり無かったことにして快としてとらえるふりをすることが善なのか?

 生意気な私は礼拝中こんなふうに考えていました。答えはでませんでした。








中学生時代 1988 ~ 1991

 この頃から父と会話ができなくなりました。挨拶も返事さえも。

 思春期によくあることなのかと思っていたら、10 年、20 年経っても変わりませんでした。

 中学生になってもいまだ母に洋服を着せてもらっていました。まさに人形そのものでした。

 20 代になってからも、無意識に母のセンスの洋服を選んでいました。

 中央に私が挟まれるかたちで両親と川の字で寝るのは大学生まで続きました。

 少しでも目の届かい部屋にいくと、母はすぐに探しにきました。

 自分の部屋で寝たいといったときの両親の淋しそうな顔、ある時は「離れるな!」の睨んだ顔。

 その後も、親離れすることに罪悪感がずっと付きまといました。

 一方で同級生や小動物をいじめたりして、いつもモヤモヤイライラが燻っていました。

 小学 6 年生の時に父方の祖母が神戸から移り、家族 4 人の生活が始まりましたが、中学 1 年生の時に亡くなりました。

 祖母とも関係がうまくいかなかったです。それが今になっても大きな悔いです。



 部活は最初の数ヶ月はブラスバンド部でクラリネットを吹いていましたが、間もなく受験にそなえて帰宅部になりました。

 受験校の大学の教授に弟子入りし、ショパンのエチュードやバッハの平均律、ベートーヴェンのソナタを練習する日々。

 同時に声楽の教授につき、楽典や聴音、コールユーブンゲンの特訓。

 東京の後楽園や要町へ、毎週のように電車でレッスンに通いました。










高校生時代 1991 ~ 1994

 東京の音楽大学附属高等学校ピアノ科に入学しました。

  1 学年 80 名足らず、男子はたった 5 名。

 日本全国から未来の音楽家が集まりました。

 これまでと違ってピアノが弾けて当たり前、しかも同じ志を持ったライバル揃い。

 当時の私のレベルはクラスで中の下くらいでした。




音楽に目覚めさせてくれた CD コーナーは
こちら です



 入学して間もなく、ある音楽評論家の本と出合い感銘を受け、往年の指揮者や演奏家の CD を、スピーカーに耳を寄せ狂ったように聴く毎日。

 ある日感極まって図書館の紳士録で著者の住所を調べ、手紙を書きました。

 するとすぐに返事をくださり、その後十数年間文通が続き、その間にも実際に合唱の指揮を通して音楽を教えてくださいました。

 あまりに妄信して、その先生の好みの作曲家や演奏家しか受け付けなくなってしまいました。


 その余韻というか後遺症は現在もありますが、この時期ほどではなくなりつつあります(今はトスカニーニもブラームスもチャイコフスキーも大好きです)。

 それでも、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、クレンペラー、ムラヴィンスキー、シューリヒト、モントゥ、シゲティ 等に出会えたことは、この先生のおかげであり、人生の宝です。

 高校から大学にかけて、音楽という精神世界に救いを求めていました。胎教で聴かされていたベートーヴェンが、やはりダントツ 1 位です。

 ベートーヴェンがいなければ、今の私はいないでしょう。





 この時期、両親との関係のほかに大きな悩みがありました。

 それは性についてです。

 次第に成長して大人になっていく自分の身体に嫌悪感を抱えていました。

 片時も離れることのないこの身体。

 忘れようにも忘れられない、絶えず意識が向くほど一番近い存在。

 女性らしい女性はもちろんのこと、男性に対する怒り。

 笑顔 = 女性という図式があったので、少しでも微笑んだりしたら襲われると信じていました。

 横から見られる身体のラインが恥ずかしく、いつも猫背の姿勢で、緩めの服装で隠していました。

 女性として見られることへの拒絶反応は言葉で表現が難しいです。

 このままいくと、自分か他人を殺めてしまうのではないかと思う程、怒りを抱えきれなくなっていきました。

 ある日、SOS 発信、タウンページで「精神科」の病院を探していたら、それを見た母は「ウチに精神病になるような子はいない!」と怒鳴りました。

 そのまま、この問題を誰に相談することもなく、自分の成長していく身体をどうすることもできず、ひとり自分の肉体に怒り狂いました。

 人と話していても突然あふれてくる涙、嫌なことを言われたのでもなんでもないのに、涙が止まりません。

 この当時は、精神科やカウンセリングに対する偏見があり、現在ほどメジャーではありませんでした。

後に母は、この時のことを悔い、泣きながら何度も詫びました。







大学生時代 1994 ~ 1997

 附属高校から音楽大学ピアノ科へ進学しました。

 新しい友達もできましたが、心の底ではライバル心でいっぱい。

 弱さは見せられませんでした。

 この頃に夢中になったのは、心理学や哲学、倫理学でした。

 ある心理学者の 100 冊は超える著作をむさぼるように読み漁りました。

 それは親子関係の問題が、一貫としたグランドテーマでした。

 もうひとつ夢中になって身を蝕んでいったものが・・・


 ある日、この年頃によくある傾向だと思いますが、友達 3 人でダイエットすることになりました。

 他のふたりは、「またお菓子食べちゃった」 (*^_^*) エヘヘと笑って、ダイエットが続かなかったのですが、ひとり私はみるみる痩せていきました。

 1 日 1400 キロカロリーと決め、毎朝お弁当も作りました。

 食品を秤で正確に量り、 0.1 g の誤差も許せません。

 乳製品、卵、魚、肉、豆、芋、果物、野菜、穀物と、バランスも考えて、油は 1 日大匙 1 杯までなど、決まりも完璧にまもりました。

 1 食たりとも 1 寸の狂いもなくカロリー計算を続けました。

 こうして体重は、簡単に 10 kg はストンと落ちましたが、「もっと、もっと痩せなければ」という念がやみません。

 何をしていても、何を見てもカロリーのことが頭を離れません。

 当初の目標体重をきっても満足はなく、自分への要求はエスカレート一直線。

 自分の身体に対するイメージも変わりました。

 身軽で行動範囲も広がりました。

 女性らしい身体から解放されたような気になり、マッチ棒のようになりたい、性の対象としてみられない男の子になりたいと願いました。

 体重や食品の計量やカロリー数、試験の点数、成績の順位といった「数字」に執着していきました。

 同時に夕食後のウォーキングも、はじめは 40 分でしたが、次第に 60 分、90 分とペースとともに増し、休日では毎食後 90 分、 1 日 4.5 時間を時計並みの正確さで、毎回同じコースを歩きました。

 それは天候や体調に関係なく、強迫的な習慣となりました。

 この食事や運動を続けることが第一優先となり、人との交流が煩わしく電話のベルにも怯えるようになりました。

 私の分単位の緻密な習慣が崩されてしまうと脅威に感じていたのです。

 何かに邪魔されて食事やウォーキングの時間がズレたことが何度かありました。

 その時は内心ヒステリックにパニックになって、次からさらに決まり事を厳しくしたりして心のバランスをとっていました。

 外食もできなくなったため、友達との付き合いもなくなりました。

 母の手料理も受け付けなくなりました。

 この強迫的習慣はこれから何年も続きました。

 ダイエット狂は、現実世界の向き合わなければならないことから目を背けさせてくれます。

 頑張っただけ、成果が目に見えます。

 身体が軽くて、試着しなくても好きな服が買えて、お腹や腕の肉をつまんで溜息つくこともありません。

 ダイエットや運動には、あるところまでいくと脳がハイになるといわれます。

 この「快感」を忘れることができず、どこまでも追い求め、終わりはなく、止められないのです。

 逆に、この「快感」を知らなければ、ここまでのめり込むことはなかったのでしょう。




 ダイエットに狂いながらも、勉強やピアノも必死になりました。

 父は私の学費と生活のために長距離トラックに乗り、日本国中を走り回っていました。

 生活リズムはバラバラで家族で顔を見合わせて会話するタイミングも心の余裕もありませんでした。

 母のピアニストへの若かりし夢は、娘への大きな期待へと拍車をかけました。

 寝る間も休日もない父と、娘に人生をかける母。

 重圧の日々・・・。

 体重は 28 ~ 29 kg(身長 156 cm)まで落ち、学校の成績順位が 1 桁にまで上り詰めた途端、鬱になりました。

 ピアノのふたも開けられなくなり、テレビを見ても笑えない、生理は止まり、皮膚は黄疸になり、目は虚ろ、声はうまく出せなくなり、髪はたくさん抜け落ち、踵はひび割れてすぐに出血しました。

 大学 3 年生のとき留年がきまり、プライドの高さから退学の道を選びました。







枕元のお告げ・インド行脚 1997/02/27 ~ 1997/04/06 (20 ~ 21 歳)

  一晩のうちに金縛りに何度もあうことがよくありました。

  たしかあの時もそうでした。

  夢と現実の間をうつらうつらとまどろむ中、インドへ行く夢をみました。

  「これだ!」と直感した私は、翌日にはパスポートやビザの手続きに走っていました。

  海外は初めて、ヒンズー語はもちろん英語もできないことも忘れて。

  「なんとかなる、ここに何かある!」

  困難な境遇に身を置いて、「生きるとは何か」の問答をしたかったのです。

  もちろん両親には秘密です。

  しばらく留守にすることを置手紙にして、逸る気持ちで家を出ました。







はじめてのパスポート









インドレイルパス






鉄道の時刻表 "Trains at a Glance"



タージ・マハル
1997/03/04
エローラ石窟寺院群
1997/03/11



マテラン登山鉄道
1997/03/12
ネラール +++++ ダダール
ニルギリ山岳鉄道
1997/03/16
メットパーラヤム +++++ ウダカマンダラム



ダージリン・ヒマラヤ鉄道
1997/03/20
ニュー・ジャルパイグリ +++++ ダージリン
アジャンタ
1997/03/10



私の行き当たりばったり 40 日間 インド鉄道の旅コース


成田 ~  デリー +++++ ジャイプール +++++ アーグラ +++++

カジュラホ +++++ サンチ +++++ アジャンタ +++++ エローラ +++++

ムンバイー +++++ チェンナイ +++++ ダージリン +++++

カルカッタ +++++ ガンジス河 +++++ デリー  ~ 成田






ジャーマー・マスジッド
1997/04/04
ジャイプール
1997/03/01






アーグラーフォート
1997/03/03
デリー・フェステバル
1997/03/30






ハワー・マハル
1997/03/02
カジュラホ
1997/03/07



シーク寺院で座禅
1997/02/28
サリーを着てナマステ~

 何度かインド人のご家庭にお世話になりました。

 子供たちと一緒に料理を作ったり遊んだりもしました。

 生水は飲んではいけないとガイドブックに書いてあったのですが、御呼ばれされたこともあり断れず、生ものの飲食もしました。

 サンチで家庭料理をごちそうになった晩、ベッドで横になっていると、急速に熱が上がり切り、体中の血液が異常に騒ぐのを感じ、天井に張り付いて動かない桃色のトカゲを見つめながら、「このままここで死ぬんだな・・・」と思いました。

 幸いなことに翌朝目覚めると、熱は下がり平常に戻っていました。

 帰国当日は、マトンのカレーを食べてひどい嘔吐と下痢になりましたが、外国人の方が病院に運んでくださり、なんとか日本へ帰ることができました。

 これで免疫がつき、身体も丈夫になったのではないかと思います。

 










「美」と「生」の探求・自転車日本一周 1998/01/01 ~ 1998/08/19 (21 ~ 22 歳)

 インド行脚から帰国後、未だ悶々とした日々を送っていました。

 この人生で何がしたいのか、何ができるのか、生と死、善と悪とは?音楽とはなにか・・・。

 ぬるま湯につかっているように無感動で与えられるだけの日々、我慢できない。


 美しいとは、果たして本当に美しいのか、永遠に、絶対に、万人に美しいのか。

 私はどうしても知りたかった。

 汚いものに憧れた。

 そこに答えがあると信じ、インド行脚から翌年、自転車に寝袋、テント、自炊道具を積んで旅に出ました。

 もちろん、両親には秘密で。

 1998 年の元旦に、埼玉県所沢市から太平洋に向かって出発。

 富士山の麓に着くころ、記録的な大雪が降るとは知らず・・・。

 日本中のたくさんの人々に励まされました。

 私のくたびれた自転車を見て、「うちに泊まっていきなさいよ。」と、食事からお風呂から世話してくださるご家庭もありました。

 母と同じくらいの年齢の女性と一緒に、布団ひとつで寝たこともあります。

 海岸線の国道を主に走りましたが、日本国中何十人もの長距離トラックの運転手さんが、運転席から「がんばれ!」のサインをくれたこと、脳裏に焼き付いています。





お宮の松
1998/01/04
富士山
1998/01/07



籠坂峠
1998/01/07
県境を超えるときの喜び!
日本地図の東海道のページ

熱海から十国峠、箱根峠、籠坂峠の道は一番厳しかった



沖縄県与那国島
1998/03/29
沖縄は、石垣島、西表島、小浜島、
黒島、宮古島、波照間、与那国島も走りました。
北海道宗谷岬
1998/08/14
北海道は、利尻島、礼文島、奥尻島も走りました。




 答えを見つけるはずだった旅ですが、日本国中どこを探してもありませんでした。

 それは一番近い自分の中にあったからです。









摂食障害(拒食と過食)と告白 2002/08 (26 歳)

 1994 年( 18 歳)から 8 年間、周囲に隠していたことがあります。

 それは、とても恥ずかしく、墓場まで持っていこうと思っていたことです。

 両親も友達も、誰も知りません。

 大学 1 年生の時にダイエットをしてから 3 年程は自分の食欲や体型をコントロールできていました。

 しかし、ある時から無性に食べたくなり、冷蔵庫を漁るようになりました。

 家中の食べ物や調味料をむさぼりました。

 炊飯器の窯ごと、しゃもじで一度にご飯を 7 ~ 8 合も頬張ることもありました。

 人間ではなく獣でした。

 それはいつも人目を盗んですることで、人前では絶対に見せない姿です。

 食べ過ぎたり絶食したりの繰り返しで、標準体重を維持できることもあれば、絶食に失敗して 10 kg 単位で体重の変動が激しく増減を繰り返すこともあります。

 一番激しかったときは、 1 ヶ月で 30 kg も太ったことがありました。

 過食とは別物の範疇である普段の食事は完全なヘルシー志向か、全く食べないかのどちらかです。

 ヘルシー食でも、最初はカロリー計算をしてバランスの良い組み合わせを考え、毎食欠かさず料理していましたが、 5 年も過ぎる頃にはメニューを考えることやカロリー計算をすることが面倒になり、ある時から毎日同じものを作って食べるようになっていました。

 思い煩うことが減り、これさえ守っていれば体重が増えることはないという安心感を得るためです。

 この頃には食事に対する楽しみも喜びもなく、常に脅かす存在でありながら、生きていくためには完全に絶つことはできないという葛藤の連続でした。

 食べ物を食べているというよりも、餌を食べさせられているといったイメージでしょうか。


 ある時、名案を思いつきました。

 どんなに食べても太らない方法をです。

 食べ物を口に入れ咀嚼し、飲み込まずゴミ袋に吐き出せば良いではないか。

 これなら普段禁じている甘いものを思う存分味わいながら痩せられると。

 初めは菓子パン 1 個だったのが、次第にエスカレートし、1 日に 3 ~ 5 時間も家族の留守中や睡眠中に、食べ物を噛んで吐くといった儀式を繰り返しました。

 顎関節症にもなり、親不知は虫歯になり全て抜きました。

 外出先では、汚い話ですが、駅のトイレや帰宅途中の道を歩きながらすることも当たり前になっていました。

 サラリーマンが帰りに一杯ひっかけると同じように、私も家に帰る前はそれをして頭を酔わせなければいられなかったのです。

 バイトをしていた時も休憩時間や仕事が終わって帰るとき、公衆トイレでそれをせずにはいられず、バイト代はすべて食べ物へとつぎ込まれました。

 1 日に 2,000 ~ 5,000 円、時には 10,000 円を使うこともあり、途中で記憶をなくして、気づいたらお財布にくしゃくしゃの身に覚えのないレシートを見て唖然としたこともあります。




 もう何年も、両親とうまく意志の疎通がとれませんでした。

 常識や正論や道徳で私を説き伏せようと、両親も苦しみました。

 私は何年も押し黙り、キレイごとの檻の中に入れられそうになると牙をむきました。

 家庭崩壊、このままいくと両親が狂ってしまうという限界で、私は自分が病気であったことに気づきました。

 インターネットで調べたら、私と同じ症状が書かれてあり、「摂食障害」という、俗に過食症や拒食症と呼ばれる依存症であることがわかったのです。

 そして、私が編み出したと思っていた、墓場までもっていこうと思っていた悪癖は、チューイングとか噛み吐きと呼ばれる症状のひとつであることも知りました。

 こんな汚いことをする自分は世界中に私しかいないと思い隠してきた過食やチューイング、絶食を治したいと思いました。

 日本に数少ない依存症の専門病院をネットで探し、入院を決めました。

 それには両親に話さなければなりません。

 この汚い自分を両親にさらけ出すことはとても恐ろしいことでした。

 ショックで死んでしまうかもしれません。

 面と向かって話すことはできず、置手紙に書きました。

 今までのこと、摂食障害であること、これから治療していきたいこと、○○ 病院へ入院したいこと。

 読んだころを見計らって家に戻ると、母が泣きながら、高校生時代のタウンページの件を何度も詫びました。

 両親に一家心中をしようと言ったこと、心の中で詫びました。

 数日後、山の中に隔離された精神病院へ入院しました。

 摂食障害になって 8 年が経っていました。







長期入院を繰り返す 2002/08/19 ~ 2010/03/15 (26 ~ 34 歳)

 開放病棟での入院生活が始まりました。

 常時、老若男女、約 100 人の依存症患者がいます。

 トイレからは過食嘔吐の苦しそうな声が聞こえてきます。

 消灯で寝ていると聞こえてくる、同室の過食症者がボリボリバリバリ・・・、遠い眼差しでスナック菓子を無心で詰め込む暗闇に浮かび上がる哀しい姿。


 院内にある自動販売機であずきモナカを 10 個買い、入院患者があまり来ない夜の外来のトイレで食べました。

 再び自動販売機に行き 10 個、トイレで過食・・・を 8 往復して、1 時間足らずで 80 個のあずきモナカを寒さに震えながら、泣きながら食べました。

 あずきモナカが食べたいわけではなく、お腹が空いているわけでもありません。

 気持ちが悪いのに止まらないのです。

 私は吐けない過食症で、チューイングもできなくなっていました。

 とにかく胃まで入れないといけなかったのです。

 その後は決まって熱が出ます。

 消化のために身体中の器官がフル活動して脈がドクドク波打ち、体力を消耗して寝苦しくも深い眠りがやってきます。

 過食しては爆睡の繰り返し。

 当然、体重も増えていきます。

 形や数字に執着していた私は、体重が増えるのは耐え難い苦痛でした。

 何度も死にたくなりました。






 1 週間を過ぎるころ、自ら希望し閉鎖病棟へと移りました。

 ドアは外からカギが閉められ、窓は鉄格子が張られた部屋です。

 これで過食をしなくて済むと思うと安心しました。

 自由よりも、過食から離れたかったのです。

 意志の力ではどうすることもできないコントロール不能な魔物でした。

 母に何度も手紙を書きました。

 買って送ってほしいものリストが届くたびに、母はそれらを揃えるため買い物に走りました。

 幼いころ、一度も物をねだったことのない私が、ここぞとばかり母をこき使いました。

 母に何度も、「私を殺せ!殺せ!」と手紙に書きなぐりました。

 初めて閉鎖に入った夜、自分の両腕を何十ヶ所も噛みました。

 翌朝、歯形の痣だらけの自分の腕を見て、誰かに助けてほしいと思いました。

 ある日閉鎖病棟で、父の自殺未遂を知りました。 3 年前に 1 度、今回で 2 度目です。

 多額な借金を苦に追い詰められてしたことだと後で知りました。

 でも、私は自分のせいだと思いました。

 その後、自己破産をしました。

 この頃が親子のどん底だったと思います。

 夫も娘も入院し、ひとり母はどんな気持ちだったか、この頃の私は思いやる余裕もなにもありませんでした。





 閉鎖病棟に、もう 3 年も入って治療している 5 歳上の女性がいました。

 すぐに仲良くなり、過去のこと、現在の悩み、家族のこと、将来の夢・・・いろいろな話をして共感し、お互いがお互いの理解者となり支えあいました。

 第 1 回目の入院期間は 1 年でした。

 退院して数ヶ月してから再び入院し、半年~ 1 年以上を病院で過ごすという生活を、 8 年間に何度も繰り返しました。

 退院して家に戻っても、メールや電話や手紙、お互いの誕生日やクリスマスにはプレゼントを交換するのが楽しみでした。

 ところが 2009 年にあることがきっかけで心がすれ違い、それきり連絡先もわからなくなりました。


 時々彼女のことを想い出します。

 いつか笑顔で会いたいと願っています。






 毎回の入院で、まずは必ず閉鎖病棟へ入りました。

 過食漬けの身体をリセットさせるためです。

 数ヶ月して開放病棟へ移り、過食に対する敗北感と罪悪感に打ちひしがれ横になっていると、開け放った窓からクラシック音楽が聞こえてきます。

 ブルックナーの交響曲 8 番です。

 この時の胸の高鳴り、身体中の細胞が歓喜に走り回った感覚は忘れられません。

 音楽に挫折してから何年も音楽を聴けなかったのですが、このとき聴いた調べは、未来に希望を見出せないでいた私に救いと力をもたらしました。

 「・・・・・・やっぱり私は、音楽が好きなんだな・・・」



 その音楽は体育館から聴こえてきました。

 アルコール依存症で入院している 60 代の男性が、CD を大音量で聴いていたのです。

 クラシック音楽が大好きなことがわかり、音楽の話で意気投合しました。

 音楽が聴こえてくると、体育館へ行って一緒に鑑賞するというのが自然にできた日課となりました。



 体育館にはピアノがありました。

 初めは避けていたのですが、徐々に長年封印してきたピアノを、誰に聴かせるわけでもなく自分の喜びのために弾けるようになっていきました。





アルコール、薬物、買い物、摂食、、、
様々な依存症や心の病の方々との出会いと共感によって支えられました。



 他力本願と言われればそれまでですが、これまでに私は色々なものに救いを求めてきました。

 霊視、お祓い、パワーストーン、風水、お寺で座禅会、お墓参り、神社参拝、瞑想、占い、水晶、カウンセリング、毎日の真水かぶり、趣味、栄養学、心理学、哲学、倫理学、一人旅 ・・・。

 どれも、過食の魔力には敵いませんでした。



 入院生活でどのような治療をしたかというと、摂食障害、アルコール依存症、薬物依存症、共依存、アダルトチルドレン、万引き癖、その家族といったグループに分かれ、同じ問題を抱える者同士が自分の話をして仲間にきいてもらうというプログラムをこなしていきます。

 ルールとして、安心して自分の話ができるように、グループは批判せずに静かにきき、グループ内での話は外へ持ち出さないということを守らなくてはなりません。

 この棚卸作業を毎日続けます。同じ話でも何度もします。仲間の話を聞いて共感したり、自分だけが苦しいのではなく、分かり合える仲間がいるというのが大きな支えとなり、自分のことを話すことでこれまでの人生や現在抱えている問題、今後どうなっていきたいかを整理することができるのです。

 時間はかかりますが、このようなミーティングを毎日続けることが回復の道とされています。

 退院してからも院外の自助グループに通い、棚卸作業を続けていき、自分のことを深く掘り下げていきます。

 私の場合は、入院中はミーティングに参加しましたが、退院中は家にひきこもって過ごしていました。

 外出するときは、帽子を目深にかぶり、マスクをして、黒っぽい服装で、人通りのない薄暗い道を歩きました。
 電車に何年か乗れない時期がありました。人目が怖かったからです。

 治療のために両親と距離をおいたほうが良いという診断で、2003 年から 2011 年 5 月まで福祉に支援していただき、一人暮らしと入院生活を繰り返していました。



 入院中に夢中でしていたことがあります。

 通信講座で覚えたビーズでアクセサリー作りです。

 他にはアロマテラピーやガラスフュージングなども通信で学びました。

 入院中とはいえじっとしていられない性分で休むことができない、自分でも困ったものです。

 退院中は、シルバーアクセサリー制作も覚えました。

 イメージしたものが形になっていく過程や、カラフルな輝きのビーズや、自然の香りで癒されるアロマは、視覚や嗅覚、触覚を刺激して楽しかったです。

 色彩や香りにも人を元気にさせる力があることがわかりました。

 とにかく好きなこと、興味を抱いたものがあれば、片っ端からやってみるのが私流です。



 ニョキ芸 のコーナーでもご紹介しています





グループ展で久しぶりの接客


 長い入院生活で 2 人のソーシャルワーカーさんにお世話になりました。

 東京や埼玉での展示会では、遠方から顔を見に来てくれました。

 全部で 500 点を超える作品は、展示会で販売の他、友人にプレゼントしたりして、手元に残ったのはわずかです。

 私の分身たちが、どこかで誰かを楽しませているかと想像すると嬉しくなります。

 高校時代の友達も一緒に楽しんで応援してくれました。

 将来の社会復帰のために医療事務や調剤事務の講座、パソコン教室にも通いました。



作品の紹介

ブログは こちら です

スライドショーは こちら です










引きこもりの 9 年間 2002 ~ 2011 (26 ~ 35 歳)
誰にも見せられない闘病記と旅日記(全 23 巻)
1997 ~ 2008

 日記を開くと、どのページも紙面いっぱいに、ミミズのような小さな文字が走り書きされています。

 今見ると薄気味悪いですが、これも通ってきた私の人生です。




 引きこもりの時、自分をとても弱く感じました。

 両親が亡くなったら、どうやって生きていけばいいのだろう。

 このままの私では一人で生きていけない。

 誰もいない独り暮らしの部屋で、ため息まじりの「死にたい・・・死にたい・・・」が独り言の口癖になっていました。

 コンビニやスーパーをハシゴして、大量の食べ物を両手に抱え、帰るまで待ちきれず、アパートのエレベータから早々に始まる過食。

 菓子パン 30 個、ホールのケーキ、生クリームをてんこ盛りの食パン 1 斤、コンビニ弁当、シュークリーム、アイス、クッキー・・・、1 ~ 3 時間で 1 万キロカロリーは食べました。

 気持ちが悪いし、お腹がパンパン、喉元まで詰まっているのにやめられないのです。

 身体の苦しさと過食の罪悪感、焦燥感でいっぱいでした。

 私は拒食より過食のほうが辛かった。

 拒食期では見た目から弱くみえるので周囲もわかってくれますし、身軽で活動的にもなりますが、過食期では標準体重かそれ以上なので、見た目は元気に見えるわりに、抑うつと対人恐怖が蔓延してきます。

 好き勝手に食べたいだけ食べて、仕事もせずに一日中横になっている怠け者としか見られず、それに過剰に意識してしまう醜い脂肪の存在が上乗せされ、絶望的に思えたのです。

 「そんなに苦しいなら食べなければいいのに」とか、「食べ物を粗末にしてもったいない」など、普通の人は思うでしょう。

 その普通のことができないのだと言っても、わかってもらえないのです。

 母は心配して、同じ市内の私のアパートによく様子をみに来てくれましたが、顔を見合わせず玄関先で帰ってもらうことがほとんどでした。

 こんな惨めな姿を見せたくなかったからです。



とめ太郎

 引きこもりの時、我が家にやってきた、「過食を止めたろう」の、とめ太郎。

 2005 年 2 月 8 日生まれの男の子です。

 5 年間、家族に笑顔を運んでくれました。

 犬を見るたび、想い出します。









編入学・再び大学生に 2008/05 ~ 2010/03 (32 ~ 34 歳)






作曲の先生のお宅での一枚


 2009 年から 2010 年にかけての最後の入院中では、通信の芸術大学で勉強しました。

 作曲家の先生に師事し和声法を学ぶと同時に、卒業制作で弦楽四重奏曲を作曲しました。

 昼間の体育館のピアノや、夜中のテレビ室に持ち込んだ電子ピアノを最少音量で弾きながら作りました。

 たくさんの入院患者さんや病院スタッフさんに励まされて完成した作品です。

 将来、作曲家になりたいという新たな希望ができました。

 後日、ProTools で打ち込みして録音したものがこちらです。










入院先で和声の課題を解き、先生宅に送り添削していただくやり取りが何往復も続きました



弦楽四重奏曲 ”アナムネーシス” 嬰ヘ短調 (2009 ‐ 2010)
 String Quartet "ANAMNESIS" in F sharp minor


Allegro appassionato
https://soundcloud.com/moriyama-kai/anamnesis-1

Adagio ― Andante cantabile
https://soundcloud.com/moriyama-kai/anamnesis-2

Allegro Moderato
https://soundcloud.com/moriyama-kai/anamnesis-3

Allegro vivace
https://soundcloud.com/moriyama-kai/anamnesis-4




 上の手書きの楽譜から finale で楽譜浄書した譜面の一部。
 第 1 楽章の展開部の終わりから再現部の冒頭部分。










人生相談・改名 2008/10/05 (32 歳)






 32 歳で再び大学生となり、作曲家になる希望ができたにもかかわらず、まだ自分自身に確信が持てず不安と疑心に満ちていました。

  「これでいいのか?」という答えのない問い。

 永遠に続きそうな勢いの過食の嵐と鬱の極み。

 「なんとかしたい。このままでは命がもたない。」


 インターネットで悩み相談を検索しました。

 宗教やあやしい匂いには敏感なので、ふるいや天秤にかけるのは得意です。

 多くのサイトのうち、「これだ!」という、ある易者さんのホームページがありましたが、1 週間位悩みました。

 他の方の相談に対する返答の文章を読むと、とても怖そうな先生という印象を持ったからです。

 しかし、何度も納得がいくまで書き直されていたり、真剣に語られる膨大な量のファイルを読み、画面から飛び込んでくる何かを感じたのです。

 やがて決心しました。

 勇気を出し、2008 年 9 月に、ネット上の掲示板に相談を投稿しました。


 掲示板でのやり取りの数日後、直接メールで鑑定と改名の依頼をし、「森山華伊」と命名いただきました。

 当初両親は、改名に対し良く思っていませんでしたが、しばらくすると「華伊さん」と呼んでくれるようになりました。

 それからはどんなに過食や鬱になっても、「大丈夫、大丈夫。」と言い聞かせ、未来にかかる希望の虹を信じました。








神戸から再出発 2011/05/24 (35 歳)

 「このまま他者に守られた暮らしを、後ろめたい気持ちで続けていくことはできない」

 自立してひとりで生活するという選択肢もありましたが、79 と 74 の高齢の両親を関東においていくことはできませんでした。

 最期こそ、父の生まれ故郷である神戸で、親子 3 人で仲良く暮らしたいという願いがありました。

 転居の準備や手続き等諸々、すべて私がやりました。



  1 ヶ月後には勤務先も決まりました。

 7 月に開院する病院での滅菌の仕事です。

 晴れて 10 年振りの社会復帰です。

 普通は、週に 1 ~ 2 回を 2 ~ 3 時間という時間枠から徐々に増やしていき身体を慣らしていくようですが、勝気な私はいきなりフルタイムから始めました。

 職場は開院前の準備で慌ただしく、連日残業で帰宅は 23 時を回ることも少なくありませんでした。

 家と職場との往復ばかりで、まだ神戸という街も知りませんでした。

 最初は緊張して過食も手におえる程度でしたが、 3 ヶ月が過ぎる頃、過食と拒食が日常生活を上回ってしまう瀬戸際にきたとき、自分から会社に申し出て、診断書を提出し、しばらく 5 時間勤務に時間枠を減らすことで了承をいただきました。

 一方、8 年振りの両親との同居も予想以上にうまくいきませんでした。

 いつも食べ物やコミュニケーションのことで言い争いが絶えませんでした。

 家にいるときは相変わらず、自分の分だけの食事を作り、自分の部屋にこもり、ひとりで食べます。

 過食の時も、絶対に親に見せられない姿なので部屋に隠れてします。

 自分の存在を知られたくなくて、抜き足差し足で歩き、ドアの開閉も音が出ないように注意しました。
 目を合わせることも、触れられることも、声を出すこともできませんでした。

 外側は、9 年前の入院時と何も変わっていません。

 両親との諍いの根源は自分にあることはわかっていても、母の手料理を食べること、家族団欒に加わることが、どうしてもできないのです。

 仲良くしたい反面、離れたいというアンビバレントな感情は、「食べたくない、でも食べたい」というジレンマと似ています。

 どちらも本当の自分であるのですが、その両極端な暴走に何度も引き裂かれそうになりました。

 職場で忘年会や新年会などの会食は何年振りだったでしょう。

 乳製品やアルコールのアレルギーをもっていると嘘をつき、野菜とウーロン茶でその場をやり過ごしました。

 しかし、ひとりになった途端、緊張が解けて、過食に走るのがオチなのですが・・・。

 どっちみちそうなら、普通に会食を皆と同じように楽しめばいいのですが、普通のことができない状態が何年も続きました。







オーケストラの門を叩く 2012/08/26 ( 36 歳)






 2011 年 11 月 13 日から、12 年振りにピアノのレッスンに通いはじめました。

 エチュードにバッハ平均律、曲というカリキュラムで基礎からやり直すことになりました。

 ひとつかふたつ年下の先生ですが、私の鈍ってしまった感性や感覚を呼び覚ますように、丁寧に音楽を教えてくださいました。



 翌年、初心者でも OK なティンパニを募集している楽団をネットで探したところ、大阪に 1 ヶ所だけありました。

  1 ヶ月位悩みましたが、勇気を出して問い合わせ、 8 月 26 日に見学に行くことになりました。

 オーケストラはもちろん、合奏経験は皆無に等しく、楽器に触れたことも見たこともないのに、「ティンパニをやってみたい」という気持ちひとつで行きました。



 本当に初心者が来たのは初めてだったようで、楽団の方々も驚かれたでしょう。

 11 月にひかえている演奏会の「フィガロの結婚」と「フィンガルの洞窟」と「イタリア」の練習をしていました。

 試奏と話し合いの結果、打楽器の先生についてレッスンを受けることになり、入団の許可を得て、毎週、往復 5 時間かけて練習に通いました。

 入団から 8 ヶ月後の 2013 年 5 月 19 日に演奏会デビューができました。





 ラフマニノフのピアノ協奏曲 第 2 番ではティンパニを、チャイコフスキーの交響曲 「小ロシア」ではバスドラムと銅鑼を、アンコールの「眠りの森の美女」ではグロッケンを演奏しました。

 どうしたらよい音が鳴るかについて、こんなに悩んだことは初めてでした。

 毎週日曜日に練習があると思うと、辛いことも乗り越えることができました。


 フルートの先輩には公私ともにお世話になりました。
 一緒に美術館で絵を鑑賞したり、小麦が食べられないという私に芋餅を作ってくれたり、演奏会の前日は泊めていただいたりと、何かと気にかけてくださいました。

 演奏会のプログラムやチケットの挿絵、解説文を作るという仕事をいただき、納得いくまで校正を重ねるやりとりも、とてもやりがいがあり楽しかったです。

 私に自信をもってもらおうと、子供の部分が多いにも関わらず親切にしていただき感謝しています。





2014 年 9 月14 日 あべのハルカス美術館にて


 なぜティンパニがやりたかったか。

 高校時代の副科の授業で合奏がありました。

 私は数ある打楽器のうち、あまり人気のないバスドラムを選びました。

 合奏でバスドラムを打つたびに膨らむ高揚を抑えるのに人知れず必死でした。

 身体中を流れる血液が沸騰するかのように熱くなりました。

 あまりの熱狂に身体のサイクルがおかしくなるほどでした。

 高校のどの授業より合奏が楽しかったです。




 同時期に夢中で読んだベルリン・フィルのティンパニー奏者 テーリヒェンの著作、「フルトヴェングラーかカラヤンか」に深い感銘を受けたこともふと想い出しました。
 その昔の感動の組み合わせがきっかけで、オーケストラに入団できたことは本当に喜びでした。

 私の好奇心はその後も途絶えることはなく、2013 年 4 月 2 日からはエレキギターを、6 月 14 日からはジャズピアノも始めました。







戸籍から改名 2013/04/22 ( 37 歳)

 4 年と 6 ヶ月前に改名してから通称名として使ってきた名前を、正式に戸籍から改名する手続きをしました。

 まず家庭裁判所へ行き手続きの用紙をもらいました。

 なぜ改名が必要なのかなどの必要事項を記入し、後日郵送しました。

 数日後、家庭裁判所から呼び出しの連絡を受け、2013 年 4 月 15 日に膨大な量の書類をトランクに詰めて面談に持っていきました。

 トランクには 4 年と 6 ヶ月間分の「森山華伊」宛で郵送されてきた約 300 通の郵便物の原本と、そのコピーを 2 部ずつとった証拠の山です。

 担当者の前でトランクの中身を広げて見せると、これだけの量を年ごとに分類、保管して、今日の面談に臨んだ私に気迫を感じられたのか、何度もため息をつきながら驚いていました。

 裁判官に提出するのは 1 年に 1 通で良いとのことで、 2008 年から 2013 年までの各年の 1 通を長い時間をかけて一緒に選別しました。


 通称名としてどれ程浸透しているのか、なぜ改名が必要なのか、名前の由来、借金や犯罪の有無についてなども訊ねられました。

 本来は通称名として 5 年以上の使用が証拠として認められなければ難しいとのことでしたが、面談から 1 週間後の 2013 年 4 月 22 日付で審判の結果が郵送されました。

 正式に「森山華伊」となり、戸籍から改名をしました。













連弾って楽しいな 2013/07/21 ( 37 歳)


 ある日勤務先の病院の社員食堂で、病院の案内の仕事をされている女性(H さん)に話しかけられました。

 お昼の休憩時間に和声の勉強やオーケストラのスコアを読む姿を見て気に留めてくれたようでした。

 なんと H さんも音大出身で最近までオペラ歌手をしていたとのこと。

 現在は病院勤務の他、自宅で子供たちにピアノを教えているというのです。








 音楽と関係のない病院の社員食堂で、ピアノの先生に出会えるなんて、とても驚きました。

 それからは、お昼の休憩が重なると一緒に食堂で会話を弾ませ、親しくなるのに時間はかかりませんでした。

 この出会いは、戸籍から改名する手続きを進めている時期と重なり、見えない何かの必然性を感じずにはいられません。

 その 1 ヶ月後、H さんから、「今度ピアノの発表会があるの。生徒全員がソロと連弾をやるのだけど、私は忙しくて練習の時間がなかなかとれないので、連弾のセカンドを弾いてもらえないかしら。」とお話をしてくださいました。

 私は快諾し、後日譜面のコピーをいただいて練習しました。

 生徒は 14 名で、そのうち私が引き受けたのは小学 5 ~ 6 年生の女の子 3 名です。

 プログラムはチャイコフスキーの「花のワルツ」、バッハの「G 線上のアリア」、いきものがかりの「エール」の連弾です。

 特に「エール」が難しかったのですが、はじめてポピュラー音楽を弾きながら楽しいと感じました。

 この感動がきっかけで、ジャズピアノもやってみたいと思うようになったのです。

 本番前の 1 週間ではじめて生徒たちと合わせました。

 いつもひとりで練習するのとはちがい、椅子の座る位置も違うので、弾き始めの音の高さがわからなくなったり、手がよくぶつかったり、相方の手の下をくぐったりと、予想していなかった色々なことが起こるのでアタフタしました。

 これまで子供が苦手だったのですが、純真無垢な心に触れて、はじめて「かわいいな」と感じました。

 発表会の当日は裏方のお手伝いも子供たちと協力して、みんなでつくっていく過程もとても楽しく、学ぶことが多かったです。

 本番の演奏は緊張しながらも支えあい、素敵な音楽体験となりました。

 最後に、「エール」を一緒に弾いた 6 年生の女の子から、綺麗な花束と一緒にメッセージカードをもらいました。

 一生懸命に書いてくれていてとてもうれしかったです。

 今までの「戦う音楽」から、「楽しい音楽」へのいざない。

 音楽ってこういうことなのか・・・と気づかされました。











自由なスケッチ 2013/07/28 ~ 29 ・ 08/11 ~ 12 ・ 09/01 ~ 02 ( 37 歳)

 戸籍からの改名のご報告と、これまでの 5 年間で何度もメールで人生相談にのっていただいたことへのお礼に、易者先生に初めてお会いしました。


 ご厚意からご家庭へ泊りがけで、奈良の神社仏閣や桃尾の滝を回ったり、これまでのこと、これからのこと、 3 人でたくさん話を交えて、生きていくための兵法の洗礼を受けました。


 70 歳の智慧と温故知新の伝承と手料理の魔法によって、今までの凝り固まった自分から脱皮できそうです。

 18 歳から苦しみぬいたアイスクリーム 80 個の過食と、 1 ~ 3 週間にわたる絶食を繰り返すという自殺行為を、今、手放す時がきたと思いました。

 その後、 2 回も泊りがけで訪問し大変お世話になりました。

 約 20 年の病、潜伏期間を含めれば 30 年の檻から解放された囚人の安息と岐路、今後の人生への自由なスケッチが始まります。

(2013/08/25)

















庭に咲いたクロマチスを摘んでくれました。
家族で食事するテーブルに飾ってと・・・



後日、水彩で描いたクロマチス






あとがき

 長く拙い文章を読んでくださってありがとうございます。

 依存症の快復への茨道はまだまだ続きそうです。

 同年代の多くの人は、とっくに結婚して出産、子育奮闘中か一段落着いた頃というのに、私は未だに自分のことで精一杯です。

 人と何かと比べて落ち込むことが多いです。

 苦難は、人や世間から認めてもらいたいという欲求が満たされないことからくると思っていましたが、最近気づきました。

 他ならない自分が自分を認められないことから、苦しみが生まれると。
 そして、頼れるのは自分しかいない、誰も(何も)自分を救ってはくれないということです。

 何故なら人も生きるのに必死だからです。

 自分が自分を追い込み、苦しみを自ら無意識に招いていることは自覚できました。

 アルコール依存症は断酒、薬物依存症は断薬ですが、摂食障害は断食というわけにはいかないので、生きていくために適度に摂取しなければならないという点においては、他の依存症に比べて難しいと思います。

 現在、先は何も見えませんが、自分を信じて、今できることをして、人にどう思われようと夢を諦めず、頑張りたいと思います。

(2013/10/28)








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