自分の身体を信じる
心優しい勇者たちへ
私は約 25 年間、摂食障害でした。
自覚していなかった初めの 8 年間は、
食のコントロールを家族に邪魔されないよう、
嘘や隠し事が増えていきました。
周囲が心配してくれることは、
食のコントロールを脅かすことなので、
苛立ちと罪悪感の狭間で苦しむことになります。
このアンビバレントな感情は食にも通じていて、
「食べたい」気持ちと、
「食べてはいけない」の禁じが同時に起こり、
どちらも綱引きのように両極端に引っ張られます。
「これは食べてもいいけど、これは食べてはいけない」など、
食べ物を良い、悪いに二極化していくうちに、
本来の自分の好きなもの、嫌いなものが何だったのか、
わからなくなっていきます。
食べ物を、良い、悪いで選択していると、
食べられる物が限られてきて、
人と食事することが苦痛になってきます。
その習慣を死守することが全てになります。
これは、自分が人生の舵をとるのではなく、
主(ぬし)が自分の外にあり支配されている状態です。
どこかで、こんな自分はおかしいと気付いていますが、
もとに戻ることはできず、視野は狭まり、
中庸のない白黒思考、
ますます強迫的になっていきます。
ルールを自分に課したのは自分であったのに、
いつのまにか自分よりルールが優位になり、
それ以外の選択肢があることを疑いません。
いつも脅威にさらされているように感じ、
いかに邪魔されず、自分のルールを遂行できるかを、
虎視眈々と狙っています。
このような日々の中、私が絶えず悩んでいたのは、
「いつ、どこで、何を、どれくらい食べたらよいのか」
または、
「どれくらいの期間、食べずにいたらよいのか」
でした。
食や体型のコントロールが、
唯一の達成感や優越感を味わえるものでしたが、
いつしかコントロール不能となり、
暴走は加速していきました。
もはや誰も止められません。
それが、何年も、何年も続きました。
食や体型へのこだわりは、何を表しているのでしょうか。
その裏には、恐れ、痛み、自己嫌悪、現実逃避など認めたくない自分があるのかもしれません。
感じないようにするために過食で感情鈍麻や、
許されたいために拒食で弱者になって、
言葉のコミュニケーションを諦めてしまった、
命がけの自己表現だったのでしょう。
そこで、冒頭の問いに話を戻します。
「いつ、どこで、何を、どれくらい食べたらよいのか」
紆余曲折しながら辿り着いた答えは、いたってシンプルで至極当然なことでした。
「いつ」・・・お腹が空いたら
「どこで」・・・好きな場所で
「何を」・・・身体や心が欲している食べ物
「どれくらい」・・・身体や心が満足する量
「わかっていてもできないんだってば!」と、
突っ込まれそうですね。
では、こう自問してみましょう。
「なぜ、痩せに執着しているのか」
「痩せを手放したら、どうなるのか」
「何を恐れ、目隠ししているのか」
「病気でいるメリットはなにか」
「健康になるデメリットはなにか」
治りたい自分と、治りたくない自分のアンビバレンス。
認めがたい気持ちは、勇気を持って認めてしまうと楽になります。
自分と向き合うことは、苦渋を伴いますが、
それを受け入れたとき、大きく前進しています。
それを続けていき、自己が確立すると、
「いつ、どこで、何を、どれくらい食べたらよいのか」という問いなど、
もはや浮かばなくなっています。
これを、「自然体」と言うのですね。
食べる、食べない、太った、痩せた云々から目くらましを食らってしまいますが、
肝心なのは、その裏の深層心理なのです。
あなたがあなた自身になっていくことをやめない限り、
必ずや幸せへの階段を上っていることを、
どうか信じていてくださいね。
本来の自分を取り戻し、
喜び楽しむ日々を送られることを、
いつも応援しています。
今日も生かされていることに、
ありがとうございます。